2014.06.22
死刑制度について考える
杉浦正健元法務大臣の話を聞く機会があった。
杉浦氏といえば第2次小泉内閣の法相として就任会見の時に「死刑執行命令のサインはしない」と発言したことで有名である。
今回は死刑制度について改めて考察してみたいと思う。
死刑制度の是非をめぐっては、死刑制度を維持する国では存続に賛成する存置論 、死刑制度の廃止を主張する廃止論、死刑制度を廃止した国では制度の復活に賛成する復活論とそれに反対する廃止維持論が存在しており、人類の永遠のテーマと言ってもよい。
大掴みにそれぞれの論拠をまとめてみると、まず死刑存置論については、抑止力や刑務所のコストの問題、被害者遺族の感情などが挙げられ、廃止論については人権問題や世界の趨勢、誤判(冤罪)の可能性などが挙げられる。
結局、両者ともに相手側を凌駕する決定的な説得力をもっておらず、結論は出ていない。だから、人類の永遠のテーマなのである。
そこで、日本に限ってであるが、憲法からの視点を再考してみたいと思う。
日本国憲法第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」と規定されている。
人間を刑によって殺すという死刑は残虐な刑罰ではないのか?
この視点については何も目新しいものではない。1948年の最高裁判決では「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第36条に違反するものというべきである。」と明言されており、死刑は手段が残虐でなければ合憲であると解されて今日にまで至る。
たとえば、イスラム圏の国で、盗人の手を斧で切り落とし二度と盗みができないようにする刑があるという。日本にこれを導入しようとするなら、おそらく36条に抵触する可能性が高い。
仮に斧で切り落とすなどという野蛮な方法でなく、麻酔を用いた手術によって手を切り取ってしまったらどうだろうか?
それでも私は残虐であるように思う。手を切り取ってしまうという発想そのものに残虐性を感じるからである。現に日本の刑法にそのような刑罰はない。
では、死刑(絞首刑)と、手を手術で切り落とす刑のどちらが残虐か。受刑すべき者らにどちらの刑がいいか?と問えば、手をとられたほうが言いと答えるだろう。
最高裁の違憲立法審査権は尊重すべきである。しかし国会が死刑は残虐な刑罰だと解釈する(そういう立法をする)こともまた立法権の裁量なのであって、その立法が判例と異なったとしても違憲になることはない。
憲法36条の解釈を改めて立法府の側から見直し、残虐な刑罰として死刑を廃止(刑法改正)すること。これが私の結論である。